mihune's content review notes

コンテンツについてのちょっとしたレヴューとかを置いておく場所。「自分語り」成分多め。「レビューの皮をかぶった『自分語り』とか正直無いっすワ」という人にはブラウザバックをおすすめする。

ピノキオP,『Floating Shelter』

高校のころ「こりゃ浪人確定だわ」と思っていた時期があった。高校三年生の秋だ。

俺はそんなに頭がいいほうではない。すくなくとも受験勉強に必要とされるような、ある種の要領のよさみたいなものには恵まれてなかった。それでもそのときまではさまざまなイベントをなんとかごまかしながらやりすごしてきた。ただそのときはどうにもこうにも立ちいかなくなっていた。端的に成績が悪かった。たいして成績も伸びなかった。

家から高校への道すがら、ほとんど無意識に自転車をこぎこぎしながら、さきに述べたような「不安」にとりつかれていた。

自分の能力みたいなものを見つめる作業が嫌いだった。いまでも嫌いだ。努力するのも嫌いだった。いまでも嫌いだ。それなのにひとよりも優れてありたいという欲望は人一倍あった。要するにゴミ人間だったわけだ。いまでもそうだ。

「いまでもそうだ。そしてこれからもそうだろう」

そんなことを登校中も、学校にいるときも、下校中にも考えていた。ある種の日延べされた感覚。この一瞬がぺたあと引き延ばされて、いまここにある状況が、過去にも未来にもそうであったかのような擬制を構成する。それは俺が俺をなじるためにつくりだした擬制であったから、それを受けとらないでいることはできなかった。

それは窒息の感覚に似ていた。だんだんと自分をいきいきと生かすための資源が俺のまわりから失われていった。自分でそれらを消尽していた。なにも残っていないわけではない。しかし、それを無限大だと僭称するほどには、満たされてはいない。そんな自己認識が明晰に自身のなかを駆けめぐるにつれて、俺はだんだんと溺れていった。

「来年から頑張る」は「夏から頑張る」に変わった。「夏から頑張る」は「夏休み明けから頑張る」に変わった。夏休み明けからはさきに書いたような「不安」に侵されていた。そしてほとんどなにもしなくなった。

そんな時期にひたすらにこの曲を聴いていた。登校中も、学校でも、下校中も、ひたすら聴いた。そのメロディラインに心酔していた。不思議なことに歌詞への興味みたいなものはそこまで涌かなかった。いまでも細部は覚えていない。歌詞の解釈論争とかが好きではなかったので、とぎれとぎれに聴きとれるわずかなパッセージにそのときどきの自身の思いを託していた。

ちゃんとした歌詞にもとづかない無秩序な意味づけだったので、いまとなってはそのほとんどを忘れてしまっている。それでもこの曲を聴くと、そういう作業に没頭してた時期のことを思いだす。

あのときの「不安」はいまでもそこにある。あのときとほとんど変わらないかたちでそこにある。そこから逃れられたわけではない。たまたまその不安が現実の状況と結びつくような事態が回避されただけだ。その不安はいまでも俺のとなりで現勢化するときを待っている。そうなんどもラッキーがつづくということはないだろう。そうなったらどうなるだろう。わからない。

よくよく考えれば、この曲はまさしくそういうタイプの「不安」について歌っていたのだった。